遠野 公平の前日譚

夢って奴はタチが悪い。

まるでゆっくり忍び寄る病に似ている。いや、ある意味では病なんだろうな。気が付いた時には手遅れで、後がない。これの性悪な所は、自分が病気だという自覚がないってとこだろうな。数十年その『病』に侵され続けても自覚症状って奴が出てこないのだから。

けれど、「夢という病に侵されている奴が自覚することは絶対に無いか?」と聞かれれば、答えはノーだ。

例えば、周りが次々と結婚していき、自分が一人だと気づいた時。
例えば、自分の才能の限界に気がついてしまった時。
例えば、経済面から。

人により様々だが、病を自覚するタイミングとしては概ねこんな所だろう。

夢を病と自覚した奴らは、死なない様に必死で『正常』に戻ろうとする。それはそうだ。自分が病気だと気づいた上で「治したくない」なんて言う奴は、どう考えても少数派だ。

そしてもちろん、さらに少数にはなるが、この病を完璧な形で克服する奴らもいる。

夢が叶った奴らだ。

叶った奴らは、自分が病って事の自覚もなく克服してしまう。これは仕方がない。叶えられない者がいるという事は、確実に叶えた者が存在するという事だ。

俺はどっちかって?

決まっている。叶えた者の筈がない。もし、俺が叶えた者であったらここでこんな話を書いているわけがないだろう。まぁ、幸いなのは、俺はこの病に割と早く気がつく事が出来た。数十年も費やす事がなく、俺は早々にこの病を治したと言えるから幸運だろう。

若い奴は特にこの病にかかっている可能性が大きい。それが病だと気がつく奴は、果たしてどれ位いるのだろう。とはいえ、気がついてもその病に溺れて、生涯を賭けてもそれは自己責任だろう。

ここに記すのは、俺がそのワケのわからない病に侵されていた時の話だ。

決して、これを読んでいる誰かの為じゃなく、俺自身がその時の気持ちを忘れたくないからだ。

前置きが長くなっちまったが、そろそろ俺のくだらねー夢について話すとしようか。


墓標なき感情

俺は今地面を舐めている。頬に突き刺さる様な痛みが走り、口の中は鉄の味で満たされた。

「公平、お前まじでふざけんなよ!」

ゆっくりと視線を怒声の方にやる。そこにはよく見知った顔があった。高校の時からずっとバンドを組んでいる池田大輝だ。大輝は倒れている俺の胸ぐらを掴むと強制的に起き上がらせる。対する俺は殴られたにも関わらず、腹減ったな、なんて事を漠然と思っていた。そういえば今朝から何も食っていなかった事に気がつく。

怒りに染まる大輝の顔の後方にある薄汚い壁にかかった、短針がぶっ壊れた時計を見る。時刻は20時を回っていた。そりゃ腹も減るわけだ。なんて全然関係ない事を考えていると、視界の隅で大輝が拳を振り上げるのが見えた。あっまたぶん殴られる、そう思った時には壁まで吹き飛んでいた。口の中が再度、鉄の味に支配される。

「お前、最近ずっとじゃねーか! 真面目にやる気あんのか!」

大輝の怒声が俺の耳朶を震わせたが、心までは震わせられなかった。

ボロボロのソファーに視線をやるとそこには他のバンドメンバーの志賀俊介と酒井健が浅く腰を降ろし、憮然とこちらの様子を見ていた。2人の表情からは「お前はぶん殴られて当然の事をしたんだから甘んじて殴られろ」といった感情がありありと伝わってきた。大輝は再び俺に肉薄すると力なく壁に寄り掛かる俺の胸ぐらを掴む。

「おいっ! なんか言えよ!」

大輝が怒っている理由はわかっている。しかし、わかっているからといってそれに対してのリアクションをするかは別問題だ。目の前にある橋が確実に落ちると分かっていて、渡る莫迦はいないだろ? それと同じさ。今大輝に何を言っても真っ逆さまに感情の渦に巻き取られてしまう。なので、ここでの正解は沈黙。それ一択だ。俺が何も言わないでいると、大輝は達磨の様に顔を真っ赤にする。

「お前のベースのプレイはこんなモンじゃねーだろ! 俺達は何年お前のプレイを見てきたと思ってンだよ! 手ぇ抜いてンのは一目瞭然じゃねーか!」

大輝が言っている事は完全に的を得ていた。ただ一つ間違っている事は、手を抜いていないという事だ。

俺はベースを弾くのが怖くなっていた。

俺自身、ガキの頃からやっているベースにはプロになろうと思わせるだけの自信があった。こいつらもそうだ。大輝、健、俊介の顔を見渡す。中学の時に出会ったのがこいつらで俺は心底幸せだった。其々が音楽の才能を持ち合わせ、それに慢心することもなくひたすら努力を重ねる奴らだ。必然的に俺らのバンドは、界隈では名をあげることができた。

このままいけば、バンドとしてメジャーデビューも夢ではなかった。メジャーでやる事がクールかと問われれば、必ずしもそうではないのだが。俺らの音楽をより多くの人に聞かせるにはメジャーが一番早いと思うからだ。ビートルズもピストルズも、オアシスも、ニルヴァーナも、リバティーンズも皆アンダーグラウンドのマインドを持ちながら、メジャーに行ったのは恐らく、より多くの人の前で演奏をしたかったからだろう。俺たちも、偉大な先人たちに追いつけると確信していた。

そう、あの時までは。


バンドをやるには金がかかる。勿論、正社員になんかなっていたらバンドをやる時間がないので、其々がバイトを掛け持ちしながら金を稼いでいた。俺は土方とコンビニの深夜のバイトをしている。

土方のバイトが終わった後、酷使した体が悲鳴をあげていたので、一旦家に帰り一眠りしようと帰路についていた。そんな時に、ふと腹に響く聞き慣れた重低音がかすかに漏れ聞こえてきた。視線をその方向に向けると、一軒の寂れたライブハウスがあった。

こんなところにライブハウスなんてあったのかと思った俺は、気まぐれにその箱に入った。二重扉の一つ目を開けると、ここからでもわかる程拙い演奏が聴こえてくる。最後の扉を開けて納得した。ステージにいたのはギターボーカル、ドラム、ギターのミニマムな構成で3人とも中学生か高校生に見えた。収容人数100人程の小さな箱だったが客はまばらで、その殆どがメンバーの友人だろうと思った。恐らくまだバンドを初めたばかりなのだろうと簡単に予想できた。

俺はカウンターの一番後ろの壁にもたれかかって、暫くそのバンドの演奏を眺めた。ギターとベースのぎこちない指の動き、ドラムのミスショット。拙い演奏だが、懐かしい気持ちになった。

俺も初めてステージに立った時はあんな感じだったと思わず笑う。やがてそのバンドの演奏が終わると、次のバンドの準備に入る。ステージに出てきたのは先ほどと同じ様な年齢の奴らだった。転換の仕方は非常にぎこちなかった。

多分こいつらもステージ経験に乏しいのだろう。事実、その予想はあたる。転換が終わると、ベースの奴が挨拶で「今日が初ステージなので緊張してます。曲は僕が作りました。どうぞよろしく」と言った。バンドの構成はドラムとベースのみ。構成は珍しいが、初めてなので、内容は先ほどの奴らと変わらないだろうとあたりをつけ、扉の方に足を向ける。取っ手に手をかけた瞬間、衝撃が走った。後方から目が覚める様なベースラインが俺の鼓膜を打った。

すぐ様振り返る。相変わらず客は殆どいなかったが、そこにいた全員がそのベースに釘付けになっていた。演奏は上手いとは言えなかったが、そんなことがどうでもよくなる程、なんていうかノリが常軌を逸していた。響く音は、一音一音全てに羽が生え、自由に飛び回るのが見える様だ。それを生かすメロディーセンスも圧倒的だった。ベースってこんな楽器だったけ? と俺に思わせる。そして何よりこの演奏者が……

(これが……初めて……?)

俺の脳裏に『天才』の文字が浮かんだ。そのプレイにいつの間にか釘付けになる。手にはびっしょりと汗が滲むのがわかった。はっきり言って、自分の方が技術はあるし、上手いと思う。しかし、そんな瑣末な自負など粉々に吹き飛ばしてしまうと共に、この領域のプレイはどんなに研鑽し、届こうと願っても、たどり着けないと思ってしまう。

演奏が終わると、俺は幽鬼の様な足取りで帰路につく。その日のバイトを休み、俺はひたすらベースを弾き続けた。しかし、どんなに鳴らしても自分の音が酷く矮小に纏り、くだらないものだと思ってしまう。一晩中休まず弾き続け、指から久しぶりに血が流れる。才能の違い。それがじわじわと背後からやってきた。

ベーシストとしてもソングライティングにしても俺は勝てるところが見当たらなかった。恐らくそう自覚した瞬間に、ミュージシャンとしての俺は死んだんだと思う。そこからは、あれだけ楽しかったライブが苦痛にしかならなかった。どんどん自分の演奏が死んでいく感覚に支配され、ついにはまともにベースが弾けなくなっていた。


そんなある日、一本の電話がかかってくる。画面を見ると、それは殆どかかってこない実家からだった。
俺は、実家を飛び出した時の事を思い出す。

「音楽で飯を食ってくなんてバカがやることだ!」

そう怒鳴ったのは親父だった。

親父は昔気質な男で、ジっちゃんの代から続く酒屋を経営していた。酒屋のくせに酒を飲まず、タバコもギャンブルもやらず、趣味は昔から続けていた空手の稽古という硬い男だった。そんな性格だから、ガキの頃からソリが合わなかった。事あるごとに鉄拳制裁を喰らい、反撃しても一回も親父に俺の拳は届かなかった。

高校を卒業する時、実家を継げと言う親父に俺は猛反発した。音楽で食っていきたいと言った時、親父は怒り狂った。俺の胸ぐらを掴むと、力一杯殴る。俺は後方に吹き飛び、地面を舐める。否定された事と殴られた事で、頭に血が上った俺は力一杯殴り返した。

その一撃は親父の左頬を撃ち抜いた。親父も後方に吹き飛ぶ。人を穿つ感覚が右拳に残留する。弱々しく立ち上がる親父を見た俺は冷静になった。先ほどの一撃は今まで喰らった拳の威力より弱かった。そして俺の一撃が入ったということは……。親父は確実に老いていた。その事実に悲しい気持ちになると、俺は自分の部屋に戻り、一目散に家を出た。

鳴り続ける電話を手に取ると、通話ボタンを押す。

「……もしもし」

聞こえてきたのはお袋の動転した声だった。

「公平!大変なの……」
「落ち着けって……どうしたんだよ?」

俺の言葉を遮るようにお袋は話を続けた。

「……親父が倒れた?」


俺は、お袋から病院を聞くと急いでその病院に向かう。病室に着くと、数年ぶりにお袋と親父に再開する。お袋もだいぶ老けて見えた。それよりも、ベッドに寝そべる親父だった。俺が最後に記憶しているよりも一回りくらい縮んで見えた。

「公平久しぶり。ごめんね、さっきは動転しちゃってて……」
「ああ……それより親父は大丈夫なのか?」

お袋は破顔する。

「そうね。検査してもらったらただの過労だって。歳のくせに無理がたたったのね」

俺は胸をなでおろすと、親父の方を見る。グゥグゥと暢気な寝息を立てている。

「そんなに忙しいのか? 公太はどうしたんだ?」
「それがねぇ……公太にはまだ任せられないって配達から仕入れまで全部自分でやっちゃうのよ」

親父らしいなと俺は苦笑いになる。

「あんた、音楽の方はどうなの?」
「……ああ。順調さ……」

俺はお袋から視線をそらす。

「そう。なら良かった。自分の人生だから後悔のない様に生きなさい」

お袋は優しくそう言う。俺はお袋をまともに見ることができなかった。その後、暫くお袋と話したが、眠りが深いのか親父はずっと眠ったままだった。その日はお袋が念の為付き添うとのことだったので俺は病院を後にする。病院を出ると俺は自己嫌悪に陥る。それはある考えが脳裏を掠めたからだ。

それは……


壁に再び吹き飛んだところで、思考の深淵から現実に戻ってきた。大輝は俺を殴っても溜飲が下がっていない様子である。

「なんか言えよ!」

俺は切れた唇の血を手でぬぐうと、力なく立ち上がった。大輝、健、俊介を見渡すと静かに口を開く。

「親父が倒れたんだ……だから俺は実家を継がないといけなくなっちまった」

その言葉は言ってはならないことだった。あの時、病室で脳裏を掠めたのは『これで、音楽を諦める口実ができる』という考えだった。その後の3人の言葉は意図的に耳に入らないようにした。何故なら予想通り、殴ってすまなかった、早く相談してくれよといったモノだったからだ。まともに聞いていたら、罪悪感と自己嫌悪に押しつぶされてしまうから……。

3人の同情は、そのまま俺自身の弱さの肯定だ。

親父をダシに自分の夢を諦める、そんな俺をきっと一生後悔するのだろうな。

夢は病だ。そう言いきかす事で俺は自分自身に免罪符を与えているのだ。

脆弱な俺に……

そして俺はベースを捨てられないまま実家に戻った。

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